yaruo
日本でこの「ストレスをかけ過ぎると壊れる」というのが認識されないのは簡単で、日本の成功者の殆どが「過度のストレスを耐え切った」選別された人たちだからです。でも当人は選別されたと気づいていません。自分の回りにいるのが選別された人ばかりだから、世の中の人はみんなこんなものだと思っています。弱い人がいるとは全く思わないので、そういうのにぶち当たると異常にしか見えません。苦労して成功すれば成功するほど、この傾向は強まります。
想像力のない超人たちが「繊細な弱者」をへし折ること | 独り言v6 (via growmoss)
hkdmz
何でもそうだけど、「儲けたくてやってる人」と「生活のためにやってる人」と「楽しくてやってる人」「ただただ目立ちたくてやってる人」とかが、ごっちゃに一緒になってやってるから揉めるんですよね。
hkdmz
壊れてから直そうとしないで下さい。
もう直りませんから。
普段からメンテナンスすることが大事なんです。
恋人と破局寸前までいってから、謝っても遅いです。
反省しても遅いです。
泣きついても意味がありません。
部下が鬱になってから、不満を聞いても遅いです。
改善案を出しても遅いです。
心配しても意味がありません。
日々良い関係を維持すること以上に大切なことはありません。
壊れたものは直らないんで。
mitaimon
よくスタバが「高くてまずい」みたいに言われてるけど、あれぐらいが適正価格なんだろうね。友達が社員してるけど休みもちゃんと取れてるし、結婚して関西→関東に変わっても大丈夫だったし、子ども産んで復職してるし...なんてことをすき家のツイート見て思い出してる。
motomocomo

308  アルコールランプ(埼玉県) 2010/02/12(金) 16:39:49.42 ID:H4E4EQxA

食べることがハッピー、寝ることがハッピーくらいのスタンスでいいよ
自己成長とか人間として何かを残すとかを中心にすると疲れる
kotoripiyopiyo
「俺は、何もプレッシャーなどかけていない」 「ムリな要求などしていない」 「勝手に、潰れていっただけだ」 「あの程度で潰れるのなら、どこに行っても同じだ」
 などという発言が聞かれることが多いが、その発言自体が、リーダーシップの失敗を物語っている。
yaruo

子供が物心つきますとすぐ、「私の責任=責任解除」という教育が、ほとんど無意識のうちに徹底的に行われます。日本人のうち、子供の時に「(私の責任です)ごめんなさい(またはすいません)と言って謝りなさい。そうすれば(そのことの責任は追及せず、無条件で)許してあげます」と言われなかった者は一人もおらず、いわばこの考え方は、「子供の時尻からたたき込まれている」のです。もし子供が、その行為に対して、むしろそれに相当する処罰を受けた方がよいと思って「ごめんなさい」とも「すみません」とも言わなければ、この「ごめんなさい」とも「すみません」とも言わないことに対して「強情なやつだ、ごめんなさいと言え」と言って、ごめんなさいと言うまで処罰が続けられることはありますが、この処罰はあくまでも「ごめんなさい」と言わないことに対して出会って、その元になった行為に対して処罰が下されているのではないのです。


そして例として、


西ドイツの新聞に、ある日本人留学生が大学図書館の本のあるページを切て取ったため、窃盗罪で起訴され、懲役刑をかされた、という記事が載っていました。

・・・

窃盗そのものは、もちろんどこの国にもあり、別に珍しくありません。ただ珍しいことは、日本では、図書館の本を切り取って法廷に立たされた学生は一人もいない、ということなのです。

もしその窃盗の現場を教授なり司書に発見されたらどうなるか。その場合は、「ごめんなさい」「すみません」と謝罪すれば、この行為は不問に付されます。ただもし「ごめんなさい」「すみません」と謝らなければ、この「謝らないこと」に対しては、徹底的に追求がなされます。しかし、もしこの際、その教授なり司書なりが、謝罪してもしなくても、窃盗は窃盗だから、その行為は当然法に触れると考えて、謝罪させた上でその生徒を警察に引き渡したなら、今度は逆にその教授もしくは司書が非難され、おそらく「教育者の資格なし」と断定され、免職になるかもしれません。

しかしドイツならずとも、日本教以外の世界では、この論理が通用しないことは説明の必要がないと思います。第一、図書館の本は教授や司書の私有物ではありませんから、窃盗を不問に付する権限は彼らにないはずで、もしそんなことをすれば、公有財産の盗奪に加担し、犯行を隠蔽したことになり、管理者としての責任を全うしなかった者として、それこそ「責任」を追求され、非難されることは明らかです。この留学生はそれを知らなかったーーということは、教授・司書も自分をも律する第三者としての「法」があって、その法が自分たちを共に律しているとは夢にも思わずに、物心ついた時以来「尻からたたき込まれた」教義にしたがって「すみません」と言ったのでしょう。日本教の世界なら、これで「行為」は不問に付されます。しかしドイツでは、これで、「罪状認否」において、本人が自ら罪状を承認したことになりますから、当然のこととして法に基づく所定の手続きが取られ、あとはすべてが「法」によって自動的に進行しただけのことでしょう。